女優 今安琴奈さん インタビュー
女優 今安琴奈さんインタビュー
くるくるとよく動く瞳に明るい笑顔、ちょっぴりハスキーな声…今安琴奈さんの舞台を見ると、誰もが小柄な体に大きなパワーが漲っていることを感じます。いつからダンスを始めたのですか?の問いに「気が付けば踊っていました」との答え!お母様が音楽家だったこともあり、彼女は生まれながらに音が溢れる世界で育ち、当たり前のようにリズムに合わせて踊ってきたようです。
幼少期からのモデルデビュー、小学校でのいじめのターゲット、そしてディズニーのお姉さんになる夢と挫折等、若干24歳ながら、本当に多くの経験を重ねて、今の彼女の強さと輝きがあるのだと感じました。
琴奈さんを語る上で、時に厳しく時に温かく彼女を見守ったお母様の存在も欠かせません。今までは母子二人三脚でしたが、これからはお母様を超えて羽ばたく琴奈さんに期待したいです。彼女が目指すのは役や演技の枠にとらわれない活動範囲の広い女優です。苦労を苦労とも思わず、目標に向かって元気に進む彼女の魅力を皆様方にお伝えできればと思います。
身長120cmまでは売れっ子でした(笑)
音楽家だった母は私に音楽、ダンス、歌等、早くから芸能を身に付けさせようと思っていたこともあり、2歳から子供服等のスチールのモデルを始め、3歳で劇団に入りました。右も左も分からない子供でしたが、劇団のレッスンや、オーディションを受けることを、全く嫌とは思わず、当たり前のように受け止めていました。思えば母はステージママの走りでしたね(笑)。 でも彼女がいてこそ今の私があります。本当に感謝しています。
幼少期の母の献身には凄いものがありました。幼稚園の送り迎えの車には洋服が一式積んであり、私は車中で着替えをして、毎日、レッスンや仕事に行っていました。今のお子様は沢山の習い事で大変と聞きますが、私に比べたらまだマシでは?と思ってしまいます。なぜなら私は、クラシックバレエ、モダンバレエ、タップダンス、ヒールダンス、ブレイクダンス等、ダンスだけでも数種類も習っていたのですから!幼少期は子供心に踊ることが楽しくて、レッスンを嫌だと思ったことはありません。早くにモデルデビューを果たし、小学校に入学するまでにはテレビ番組やCM出演もして、私の芸能生活は順風の滑り出しでした。それが…背丈が伸びて120cmになった頃から、パタッと仕事が途絶えました。子役としての私の需要は、小学生という子供から少女への移行期…ある意味、微妙な年齢を境に、極端に少なくなったのです。
小学校でのいじめの体験
小学校に入学して、モデルの仕事が減っても、私は相変わらずレッスン漬けの日々でした。学校が終わると母の迎えの車で即、レッスンに向かうため、塾に通う時間などありません。ですから授業にだけは集中して、勉強の遅れをとらないように必死に頑張りました。授業の合間の休み時間はよく寝ていましたね。先生に外で遊びなさいと注意されたこともありました。夜もレッスンに時間を割く私には、休憩時間が大切な睡眠時間だったのです。
普通の小学生とは全く違った生活をしていましたので、同級生とは共通の話題もなく一人孤立していました。夜のテレビの人気のドラマは見られないので、翌日の会話の輪には入れません。レッスンの後に外食をすることも多く、お家での晩御飯の話題にも入っていけず…結局は浮いた存在になり、絶好のいじめのターゲットになりました。
当たり前ですが、私はいじめられて傷つきました。「学校に行きたくない」と泣いたこともありました。それでも母は小学校に行く義務があると私を送りだしました。挙げ句にはいじめられる方が悪いと叱られもしました。この話を聞くと鬼のようと思われる方も多いでしょうが、それは紛れもなく母としての愛の鞭だったのです。
おとぎの国でみつけた夢
小学校でいじめられて辛い思いをしていたある日のことです。私は朝の5時に起こされて母とディズニーランドに行きました。当時は大阪に住んでいましたので、かなりの距離ですが、母の運転する車で向かいました。長時間、車に乗ってやっとたどり着いたディズニーランドは、いじめで傷ついていた私の心を優しく溶きほぐし、楽しく誘ってくれる、正におとぎの国でした。開園から別世界で遊び、お昼12時からのパレードを見ると、シンデレラリバティーではありませんが、私の魔法の時間はお終いでした。パレードの後に大好きなキャラクターグッズを1つお土産に買ってもらい、帰路につくのです。慌ただしい半日程度の滞在ですが、日常から解放され、すごくリフレッシュになりました。学校を休んで行く平日のディズニーランド通いは何度かありました。その都度、母には説教されたり、褒められたりと色々でしたが、乾いた私の心に愛を注ぎ潤してくれたことは間違いありません!
皆様もご存知と思いますが、ディズニーのショーではミッキーマウスと一緒に踊るお姉さんがいます。最初にステージを見た時からあの「ディズニーのお姉さん」になることが私の夢になりました。ディズニーの舞台ダンサーのオーディションは18歳になると受けられます。それからは18歳の夢のゴールを目指してひたすらレッスンを重ねました。不思議なもので夢を持つと全てが違って見えるようになりました。学校での人間関係も、レッスンの厳しい環境も、ディズニーのお姉さんになる夢を思えば、苦にならなくなったのです。
私の原点は「は~もに~らんど」
小学生から中学生にかけて、私の活動の場はミュージカルへと移っていきました。当時、盛んだった市民ミュージカルに母が制作と演奏で参加することになり、私も役をいただき舞台に立つようになったのです。ミュージカルは総合芸術です。歌、踊り、演技…全てのスキルが必要です。私の芸の幅はミュージカルによって広がったと言っても過言ではありません。
さらに母は幼児のリトミックの指導にも力を注ぐようになり、子供のミュージカル劇団「は~もに~らんど」を立ち上げました。は~もに~らんどには随時、子ども達が参加してきましたので、年長の私は、物語の意味、役づくりやダンスを教える立場になりました。子ども達に教えることは自分自身の勉強にもなり、良い経験をさせてもらったと感謝しています。今は活動の拠点を東京に移しましたが、私のミュージカルの原点は母の「は~もに~らんど」であることに変わりはありません。これからも子ども達と一緒に踊り、歌い、学んでいきたいと思っています。
夢に向けて伴走してくれた母
思い返せば私の10代は、学業とダンスレッスンとミュージカルをひたすら続けるマラソンランナーのような日々でした。ゴールはディズニーのお姉さんです!
ダンスのレッスンは種類が多く掛け持ち状態でした。オーディションが重なるとレッスンに行けず遅れをとり、それを挽回する努力も半端なかったです!スランプもありました。特にタップダンスは自分のタップの音が聞こえなくなり、足がもう動かなくなったことを覚えています。ついにはレッスンが嫌になり、タップシューズやバレエシューズを切り刻んで、「行きたくない」と抵抗したこともありました。そんな私を母は厳しく叱ったり、優しく諭したり…いつもそばにいて真摯に向き合ってくれました。
不思議なことに、演技で賞をいただき皆さんに褒められた時、なぜか母は「今日はなってなかった」と叱るのです。反対に出来が悪く評価が散々だった時、母だけは「よく頑張った」と褒めてくれました。世間が褒めてくれた時は私が自惚れないように、たずなを引き締め、反対に世間が褒めてくれなかった時は、親だけは味方であることを示してくれたのです。
無残に破れた夢からの再出発
そしてついに私の夢のパスポートにトライする日が来ました。2012年9月19日、18歳の私はディズニーのダンサーのオーディションを受けました。一次、二次と順調に進み、最終審査の時、なぜか私の受験番号は呼ばれませんでした。私の一つ前のすでに落選した方の番号が読み上げられたのです。頭の片隅に「これは何かの手違い」と思う一方で、その時の私は自分を信じて審査委員に、私の番号の間違いではありませんか?と訴える勇気はありませんでした。
夢は無残にも敗れました。つらいレッスンも、いじめも、ディズニーのお姉さんになることを想って耐えてきたのに、努力の日々は報われなかったのです。はずかしいお話ですが、オーディションに落ちた私は自殺したいと思いました。何度も手首をカットしよう…とか、地下鉄に飛び込もうとか…馬鹿な衝動にかられました。結局はそんな勇気もないただの弱虫だったのですが!
目的を失い自堕落になっている私に雷を落としたのは、やはり母でした。忘れもしません。オーディションに落ちて1ヶ月程が経ったある日、母に「感謝が足りない!いったい、何をしているのか!」と怒鳴られました。ディズニーのオーディションを受けるまで、私を育て応援してくれた方々、そして慕ってくれた子ども達、全ての人々に感謝の気持ちがあるなら、今後の生き方を考え、新しい夢にトライすべきと喝を入れてくれたのです。
もしもディズニーのオーディションに受かっていたら、こうして女優として活動する私は無かったと思います。オーディションに落ちたからこそ今の私があるのです。人生に起こることは全て必要なことです。18歳の私にはあの経験が必要だったのです。厳しい試練はそれを耐えられる者にのみ与えられる…と言いますが、あの辛い試練は神様があえて与えてくださったものと感謝しています。
ストレスを人生の糧に
高校を卒業した私は、ディズニーを目指して積み重ねてきたレッスン、ミュージカルの経験を活かして芸能の道に進むめため、上京して芸能の専門学校に入学しました。今までの努力は決して無駄ではありませんでした。おかげ様で入学して即、外部から仕事をいただく等、どんどん活動の場が与えられました。その後、専門学校から芸能プロダクションへの入社、マネージメント事務所の移転等、私を取り巻く環境は変わりましたが、仕事への情熱はずっと変わらず、強く持ち続けています。
女優としての私はまだ新しいスタートラインに立ったばかりです。歌に踊りに、さらに演技に…ストレスフルな毎日ではありますが、今はとても充実しています。私はストレスをネガティブにとらえてはいません。うまく出来ないことにトライするポジティブな機会と考え、挑むことにしています。
女優とはハードな仕事です。睡眠時間も充分に取れないことが多く、それでも常に美しくあることが求められます。美しさの原点は健康にあると分かってはいますが、なかなか健康的な生活は難しいです。ですから出来ることだけは、しっかりとするようにしています。なるべく食事はきちっと摂ること、また女優のメイクは肌に負担がかかるので、しっかりとクレンジングすることなどです。お陰様で中学生から母に肌の手入れを教えてもらい、年齢の割には高価な基礎化粧品与えてもらっていましたので、ニキビ、肌荒れ等のトラブルは、ほとんど経験していません。ただ、あまり肌が強くないので、なるべく優しい成分のものを選ぶようにはしています。もちろんメイクにも気を配っています。最近はまつ毛のエクステに凝っています(笑)。 自分が美しく見えるための研究も女優としての大事な努めです。
世界で一つ楽器、私の「声」で新しい挑戦!
ずっとミュージカルをしてきましたが、実は私が一番、苦手としているのは歌なのです。ハスキーとは聞こえが良いですが…幼少期はよく「風邪を引いたの?」と聞かれたものです。この声がコンプレックスで、どこか歌うことを避けてきました。綺麗な声を持って生まれた人しか歌ってはいけないと思っていたのです。
ですが昨年、有名なシンガーの方とご一緒した機会に、その方から「声は子どもが母からもらった世界で一つの楽器である」と言われて目が覚めました。なんて素晴らしい言葉でしょう!それからの私は自分の喉、声をいとおしく思うようになりました。
また、ある大御所のミュージカル俳優さんからは「嫌々やるのではなくて歌いたいと思った時に始めればいいんだよ!」と言っていただきました。お二人の大先輩のお言葉で、歌うことに臆病になっていた私の気持ちは晴れ…心の底から「歌いたい」と思いました。そして2018年7月には24歳のバースデーライブが実現しました。これからも歌うことにどんどんトライしたいです。
もう一つ新しい試みとして、月2回、FM局で「は~もに~らんど」の志保さんの番組に出演することになりました。女優の仕事と違い、ラジオは目に見えないリスナーに向かってお話するので別の意味で大変ですが、伝える力が養われ良い勉強になると信じています。
仕事をする上で一番大切なことは、ココまで導いてくださった方々への感謝の気持ちです。その恩返しの意味でも、私の演技や歌が一人でも多くの方を勇気づけたり、楽しませたり、何かのお役にたてれば嬉しいですね。
よく憧れの女優さんは?と聞かれますが特にありません。偉そうなようで恐縮ですが一つの役やイメージに囚われるのは嫌で、今安琴奈という新しい女優像を皆様にお見せできればと望んでいます。まだ駆け出しの私ですが、末永く見守っていいただければ嬉しいです!
今安 琴奈(いまやす ことな) 日本の女優。兵庫県出身。 合同会社鈴木エージェンシー所属 https://ameblo.jp/ailove-musical