大久保かれんさんインタビュー
はだいぶきサイト 大久保かれんさん インタビュー http://radio.karen.fm/
明るい笑顔と軽快なスピーチで、多くのファンを持つディスクジョッキー(以下DJ)の大久保かれんさん。
只今、担当されているFM COCOLOさんのMUSIC ISLAND BREEZEは、アラフォー、アラフィフ世代に大人気の番組です。
神戸に生まれずっと神戸育ちと思いきや? 横浜、ニューヨークと幼年期を過ごされ、小学校の6年に神戸に戻ってこられたとのことでした。多感な時期を様々な場所で過ごされたことは、その後のかれんさんの人格形成に少なからず影響しているようです。
中学から大学までは女子校で、中学の時は生徒会長を務める真面目な優等生…ところが高校生になると一転!神戸の街で遊びまくったとか?
お嬢様でいて、ちょっぴりアネゴ的な雰囲気をお持ちなのも、そのお話を聞いてなんとなく納得してしまいました。
DJやMCのタレント活動以外に、最近はヨガのインストラクターとしてもご活躍です。今回はリスナーに元気を与えてくれる大久保かれんさんの明るい活力の源に迫ってみたいと思います。
様々な環境で育った子供時代
神戸で生まれましたが、父が船会社に勤めていた関係で転勤が多く、幼年期を横浜で、6歳から10歳まではニューヨークで過ごしました。帰国後は横浜の小学校に編入して、神戸に転校、そこで小学校を卒業しました。小学校の6年間で4つの学校に通うという…結構、めまぐるしい子供時代でしたね。ただ自分としてはそのことを嫌とも思わず、環境の変化を楽しんでいたように思います。ひょっとすると環境への順応性が高いのかもしれません(笑)。
皆様もご存知の通りニューヨークは人種のルツボです。周囲には白人も黄色人も黒人もいました。子供の頃から当たり前のようにボーダーレスの環境に育ったことは、とても良い体験でした。自分が日本人だと言う孤立感などは全く感じず、様々な人種の方とお友達になって遊んでいました。地元の学校に通っていましたので、授業はもちろん英語です。ただ日本人なので週末には日本語学校に行き、さらには地域の英語学校にも行っていました。今の子供さんの塾通いとは違いますが、結構、忙しい小学生でした。日本への帰国は小学4年生の時です。4年から6年の1学期までを横浜の学校に通い、2学期に神戸に転校して卒業しました。そこからはずっと神戸です。中高も大学も女子校でした。女子校特有の厳しい風紀もありましたが、それをすり抜けて結構、神戸の街で遊んでいましたね(笑)。
幼年期は住まいを転々としましたが、全てが海のある港町でした。ずっと海が好きで、海辺で過ごすことが何よりも心が安らぐのは、ひょっとして私の心の故郷が「海」なのかもしれません。
DJは子供のころからの憧れの仕事
小学生だったニューヨークの生活では、とにかくラジオの好きな子供でした。まだ日本ではFM局や音楽番組がなかった時代かと察しますが、あちらは音楽番組が多く、様々なスタイルのDJが活躍していました。子供心にDJのトークを聞いてカッコイイなぁと思っていたのです。帰国して中高と過ごすうちに、アメリカ文化の波が日本にも押し寄せてきました。アメリカのポップカルチャーを日本的に反映したラジオ局としてJ-WAVEさんも開局しました。
子供の頃の憧れをそのままに、私はDJになりたいと思っていましたので、大学に進学すると、わざわざ東京にオーディションを受けに行ったりもしました。その中でFM802さんのDJセミナー、こちらはセミナーにもオーディションがあるのですが…に受かり、ワークショップに参加することができました。今もご活躍のDJの方々からご指導を受けることができ、学ぶことが大変に多かったです。第一線で活躍されている方のお仕事に触れることが出来て本当に幸運でした。
ラジオのDJデビューは大学時代です。FM802で深夜の一度限りの特別番組でDJをさせていただきました。リスナーさんから初めてファンレターをいただいたのもこの時です。とても嬉しかったことを今も覚えています。そして卒業後に地元のKISS FMさんのオーディションに挑戦して受かり、念願のDJとして歩みはじめました。
新米DJには紆余曲折がありました
子供の頃からの憧れの職業につけたことは本当に有難いことだと思います。ですがDJになった現実はなかなか厳しいものでした。当たり前と言えば当たり前のことですが、DJの仕事以前に社会人としての礼儀作法、言葉使い等を厳しく注意されました。アメリカで育った影響が濃く、何事にもフランクな乗りだった私が、先輩方に日本人としてのしつけを受けた感じですね。小学生を英語社会で育ったこともあり、特に言葉使いに関しては、敬語、丁寧語等、日本語の難しさを思い知りました。当時は携帯やネットも無かったので、常に辞書を持ち歩いていました。ただ…辞書の例文も今ほど豊富ではなく、分かりにくいことが多かったです。自由な環境で育った私は、やりたいこと、好きなことにドンドンと突き進む傾向がありますが、実際の番組ではそのようにはいきません。頭打ちもありましたし、自分勝手な言動で、ある意味、プロデューサーやディレクターにもご迷惑をおかけしたと思います。後になって聞いた話ですが、私の番組はクレームも多かったそうです(笑)。
阪神淡路大震災を転機に隣のお姉ちゃん的存在に!
社会人としてDJとしてようやく仕事にも慣れてきた頃の1995年に、阪神淡路大震災がありました。もちろん私も被災しましたし、Kiss FMの社員も同様です。会社が緊急事態に陥りました。被災地では日々、生活していくこと自体が大変です。その中で番組を作り放送を続けるために、社員一丸となり協力体制が組まれました。電波媒体で働く者として、落ち込んでいる神戸の空気を盛り上げる使命を強く感じました。被災した方々が聴かれて希望が持てる…そんな情報発信ができる局として、Kiss FMも新体制で臨むことになりました。私はその体制下で、新しい夕刻の帯の番組を担当することになったのです。使命は大きかったですが、この番組に携わることで育てられ、大方の皆様が抱いておられる明るく親しみやすい、隣のお姉ちゃん的「大久保かれん」のイメージが出来上がったと思います。番組のテーマは、幸福・happyでした。被災して思うことは生きていることの有難さです。被災した方と同じ視線で、命があることの幸せをかみしめ、これから生きる未来に希望を持ち、happyになるにはどうしたら良いか?被災地に活力を取り戻すことを目指して番組作りに努めました。神戸が震災から立ち直るにはハード面だけでも2~3年はかかったと思いますが、その間、私も一緒に毎日伴走してきた感じです。
30歳になり、一度、仕事をリセット
Kiss FMの帯の番組はリスナーも多く順調ではあったのですが、30歳を前に、私の中で「いつまでもこのままでいいのかな?」という疑問が湧きでるようになりました。20代は隣のお姉ちゃんキャラで良かったのですが、果たして30歳を過ぎてもこのまま続けていけるだろうか?と自身に問いました。毎日の生番組を持つことはマラソンランナーのようなもので、とてもエネルギーを消耗します。また、震災からずっと休み無しに走り続けてきた感じで、少しインターバルが必要だったことも事実です。そこで一旦、小休止を取ることに決めましてKISS FMの番組を卒業しました。その頃はDJ以外にもMCやテレビのお仕事もしていましたので、生放送ではなく、収録の番組等、ある程度、自分でスケジュールを調整できるお仕事だけを残して一線を退きました。
その後の1年半ほどは連日、遊びまくりました。神戸の街に繰りだして友人達と遅くまでよく飲みました。仕事に追われていた人間が解放されて、その反動がドッと出た感じです。別に罪悪感等はなかったです。今まで頑張ってきた自分へのご褒美という感覚でしょうか?!
ですが、私の人生はやはりDJとして運命づけられているのか…KISS FMがハーバーランドのオープンスタジオで番組を放送することになり、そちらのDJとして仕事に復帰しました。オープンスタジオでの仕事は、局内での番組と違い、リスナーと直接に触れ合える楽しいものでした。一方的な発信ではなく、相互交流ができるのですから、リスナーから学ぶこともありました。結局、そちらのスタジオが閉鎖されるまで、番組を担当させていただきました。
FM COCOLOさんの番組でリスタート
20代、元気な隣のお姉ちゃんとしてDJを勤めていた私も30代を経て、40歳になりました。その年にFM COCOLOさんからお仕事をいただきましたので、40歳からのリスタートです。Kiss FM時代に比べると仕事環境は大きく変わりました。当時のFM COCOLOはオーバー45を対象とした番組作りを目指しており、スタッフもベテランや重鎮が集められました。その中で私は40歳でも若輩者でして、まだまだ学ぶことも多く新鮮な気持ちで取り組みました。只今、担当させてもらっているMUSIC ISLAND BREEZEでは自身が青春だった頃の音楽も紹介でき、選曲も楽しいです。お陰様でリスナーも増え、番組としては順調に進んでいると思います。
私のDJとしての出発点はアメリカにありますので、主軸となる音楽と言えばやはり洋楽、ポップスですね。アーチストではスティービーワンダー等、黒人系のソウルミュージックが好きです。不思議なことに小学生を過ごしたアメリカでの体験が今でも体の中に残っています。音楽だけでなくアメリカの1970年代のポップなカルチャーも大好きです。
健康管理に始めたヨガ
先にポップなアメリカのカルチャーが好きと申しましたが、実は食事も同様でして、コーラーとハンバーガーが大好きです。あまり体には良くないと分かっていながら、ジャンクフードもよく食べます(笑)。
ですが年を重ねるにつれて、健康のことを考えるようになり、色々と試した末にヨガに行きつきました。ヨガとの出会いはずっと昔、ニューヨークの小学生時代まで遡ります。その頃はヒッピーブームで、インドのヨガがもてはやされた時代でもありました。先生方にもヨガに傾倒されている方がいらっしゃって、週に一度、学校でもヨガの指導があったのです。もちろんその頃のヨガと今、私が行っているものは少し違います。昨今はヨガも様々な流派ができました。近年、日本で流行っているホットヨガはアメリカで生まれたものです。そして私のグラヴィティヨガは、なんと大阪が発生の地です。自分に合っている健康法を探していて、しっくりとくるこのヨガに行きつきました。グラヴィティヨガの基本は呼吸です。胸を大きく開き、深く呼吸をする事で全身の感覚が満たされていきます。酸素をより多く取り込み生命のエネルギーを回復させるのです。
周囲の同世代の仲間にも日々の健康法を探している連中が多く、その方達に教えることを目的にインストラクターの資格を取り、2014年からヨガを教え始めました。今はグラヴィティヨガのレッスンを舞子(神戸市)の海辺のホテルで、さらにはSUPヨガと言う、サーフボードを海に浮かべてその上でヨガを行うプログラムを、明石市の林崎海岸で指導しています。教室のロケーションには私の心の故郷「海」にこだわりました。ヨガの指導者としてはまだ駆け出しですが、呼吸で心身ともに元気になっていくことを多くの方と共有できればと望んでいます。
50代に向け自分の可能性を信じたい!
私はストイックな性格ではありません。どちらかと言えば気持ちの良いことに身をゆだねるタイプです。何度も言いましたが海が好きで、ハワイには毎年、行きます。住まいも海辺の垂水(神戸市)に引っ越しました。海を望むと自分が開放されるので、今の生活環境には満足しています。
もうすぐ50代を迎えますが、これからもドンドン新しいことをinputして自分を高めていきたいです。世界中、まだ行ったことのない国も沢山あるので出かけてみたいし、特にラテン音楽のメッカ、キューバには是非、行きたいです。
公私ともに元気に過ごすために一番大切なことは健康です。ヨガとの出会いは、その意味でも素晴らしいことでした。DJの仕事に加え、ヨガをもう一つのライフワークにしていくつもりです。正しく深い呼吸は緊張を緩和し、雑念が取り除かれ、無の境地に導いてくれます。ストレスフルな現代社会を過ごす皆さんに、呼吸による健康法を伝えることが出来れば嬉しいです。ヨガの夢に関しては、またいつかお話しする機会があればと望んでいます。
協力 ホテルセトレ神戸・舞子http://www.